2011年8月6日

戦後66年終戦の日特集 館山市の戦跡1 「館山海軍航空隊」その1

 幕末から、太平洋戦争が終った1945(昭和20)年まで、東京湾の入口にある館山は、国の中心である東京(江戸)を守るための重要な場所でした。そのため館山には、砲台跡や海軍航空隊跡などの戦跡が、今でも数多く残っています

第二次世界大戦が終了して66年。今年もまた、8月15日の終戦の日が巡ってきますが、館山市内に残る戦跡をシリーズで紹介します。

第1回目は、館山海軍航空隊を紹介します。

海上自衛隊館山航空基地には、最新鋭のSH-60Kなど約30機のヘリコプターが配備され、わが国周辺海域の海上交通の安全や沿岸警備などの任務にあたっています。


第21航空隊のSH-60K

かつて館山海軍航空隊が置かれていた海上自衛隊館山航空基地の周辺には、工場や倉庫跡、戦闘機を空襲から守るための掩体跡、地下壕跡など、さまざまな旧海軍航空隊の関係施設がつくられ、現在もその跡が残っています。

1903年、ライト兄弟が初飛行に成功した後、次々に新たな飛行機が開発され、実用化されていきました。そして、戦争において航空機が用いられるようになったのは、第1次世界大戦(1914~1918年)からのことです。

旧海軍も世界の流れに遅れないように、大正5(1916)年海軍航空隊令を発布し、同年横須賀海軍航空隊(神奈川県)を開設します。その後、佐世保(大正9年・長崎県)・霞ヶ浦(同10年・茨城県)、大村(同12年・長崎県)の後、昭和5年館山海軍航空隊が、翌年呉海軍航空隊(広島県)が開設され、これらの航空隊が、海軍航空隊の基礎を形作ったといわれています。そして、これらの航空隊には、戦闘機・艦上攻撃機・水上機など、海軍最新鋭の機種が配備されていました。

館山海軍航空隊に配備された89式艦上攻撃機

5番目の海軍航空隊として開設された館山海軍航空隊の建設工事は、大正12年の関東大震災による地盤隆起により、宮城・笠名海岸と沖ノ島・鷹ノ島を結ぶ一帯が浅瀬になったところを埋め立てることからはじまりました。

この工事は、公用水面埋立法(大正10年施行)に基づき手続きが行われ、昭和3年7月5日付で海軍次官から内務次官宛に、埋立を行いたいので承認して欲しいとの文書がだされたことにより手続きが始まりました。第1期工事は昭和4年7月10日から昭和7年3月31日の間行われ、約22万坪が埋め立てられました。第2期工事の約16万坪とあわせ、約38万坪の浅瀬が館山海軍航空隊となったのです。(その2につづく)
昭和22年撮影の館山海軍航空隊跡の航空写真
当時はまだ、沖ノ島が砂州でつながっていませんでした
(写真左上の島が沖ノ島)