2011年8月9日

戦後66年終戦の日特集 館山市の戦跡4 「館山海軍航空隊」その4

太平洋戦争以前の館山海軍航空隊(館空)では、基本教育としての飛行機操縦訓練、空母艦上機のパイロット養成のほか、中型陸上攻撃機(中攻)の実用試験と搭乗員の訓練などが行われていました。

旧館山海軍航空隊の正門と本部庁舎(昭和10年)

89式艦上攻撃機(昭和10年)

館山海軍航空隊体操(昭和6年)

昭和10(1935)年には、後に初めて海を越え、長崎県大村から中国の南京を爆撃した96式陸上攻撃機が、試作機として館空に配備されました。中攻隊は、世界初の渡洋爆撃の前月、昭和12年7月に木更津に移転するまで、館空で開発と訓練が行われました。

96式陸上攻撃機

旧日本軍は敵機の攻撃に対して、大正10(1921)年の陸海軍航空任務分担協定により、本土の防空は陸軍が、海軍は軍港や航空基地など、一定の限られた防空を担当するという役割分担がありました。

中国への渡洋爆撃や昭和16年の真珠湾攻撃が示すように、旧海軍には攻撃重視の思想が強かったといわれています。敵の攻撃を受けないという考えは、太平洋戦争開戦時の館空の防空体制が、城山砲台の高角砲4門のみであったことからも窺えます。


昭和初期の城山(館山)。
城山砲台の建設により、頂上部が削られました。

しかし昭和17年9月以降、南太平洋パプアニューギニアのラバウル方面で、米軍の空襲により海軍航空基地が非常に大きな被害を受けました。この教訓から、海軍も本格的に防空の強化をはじめました。

昭和17~18年にかけて、海軍は茂原、厚木などで、地下・半地下・随道(トンネル)の構造物を短期間に建設するための実験を行いました。

そして昭和19年以降、本土各地の海軍基地で防空施設の本格的な整備がはじまり、館空では飛行機掩体、赤山地下壕などの建設工事が行われました。 (その5につづく)