2013年1月17日

第8回安房学講座開催!

1月12日(土) “渚の駅”たてやまの海辺の広場レクチャールームにて、
第8回 安房学講座「安房の古代のまつり」が開催されました。
講師は國學院大學神道文化学部教授笹生衛氏です。

安房博物館時代に当館学芸員も勤めていた笹生氏

満員御礼!手前の後姿はなんと市長!

 本日は海からの冷たい風の吹きつけるきびしい天気となりましたが、それにも負けず、たくさんの方にご来場いただきました!

 さて、本日のテーマは「安房の古代のまつり」
 お祭り好きの安房のみなさんはきっとお神輿や山車、あるいは夜店を想像したんじゃないかと思いますが、今回の「まつり」はちょっと違うのです。
 僭越ながらその中身を少しだけご紹介させていただきます。
 最初に、今回出てくる地名や範囲は特に注釈がないかぎりは古代のもので、安房郡も今とは範囲が違うことをご了承ください!


1.「神郡」をごぞんじですか?
 神郡…なんだか神々しい響きですね。
 7世紀ごろ、大化の改新により国郡制が成立したさい、国家から見て重要な神社を維持するため、租税を提供するように特別に設定した神社の神域のことで、全国に8箇所しかありません。
 その8箇所とは、「香取神社(下総国香取郡)」「鹿島神宮(常陸国鹿島郡)」「伊勢神宮(伊勢国多気・度会郡)」「日前・国懸神社(紀伊国名草郡)」「出雲大社(出雲国意宇)」「宗像大社(筑前国宗像郡)」そして我らが「安房神社(安房国安房郡)」です!

 ずらりと並ぶ有名神社!…でも、なんだか…安房神社、浮いてる…?
 どうしてこのラインナップに安房神社が…そんな謎を今回の講義で解き明かしていきます。


2.安房の祭祀遺跡を追え!
 祭祀遺跡とは、いろいろな定義があるのですが、この講義では「その場所または近くで、古代のまつりの痕跡が確認された遺跡、遺構」のことをさします。安房郡内では38箇所が確認されており、大きく分けて3つの時期に分けられます。
 まつりに使う道具(勾玉、鏡、鐸、剣など)はとても貴重なので大事に倉にしまっておき、代わりに模造品を大量に作るそうです。
 ちなみに、笹生先生は土器を見るだけでだいたいの年代がわかるそうです!すごいですね!

Ⅰ期(4世紀中葉~5世紀前葉、古墳時代)
 関東の中でも最古級。現在の南房総市白浜町、小滝涼源寺遺跡に17箇所もまとまって出土しています。出土品には、石製の祭具模造品S字口縁甕鉄剣鉄鋌(鉄ののべ板)があり、磐座(いわくら)や炎を使った大規模な祭祀が行われていました。
 後半の時代では、さらに釣り針などの漁業関係の道具も加わりました。

Ⅱ期(5世紀中葉~6世紀前葉、古墳時代)
 房総半島南端の海岸部から館山平野内まで広い範囲で多数の祭祀の場が展開。技術の発達により農業や暮らしの場が山や谷まで広がったことがわかります。少量の石製模造品土製模造品高坏手捏土器が発掘されました。5世紀後半は石製模造品を使用したまつりが全国に普及した時期であり、その流れと一致します。火であぶったあとのあるアワビの殻も発見されました。古代の人もアワビをおいしくいただいていたのかもしれません。

Ⅲ期(6世紀中葉~7・8世紀代、飛鳥・奈良時代)
 土製模造品と手捏土器を祭具の中心とし、占いに使用した卜骨なども発掘されました。Ⅱ期で広い範囲に散っていた祭祀の場が、特定の場所にまとまってきました。
 また、大量のカツオの骨と鹿骨製の擬餌針も見つかっており、古代のルアーを使ったカツオ釣りの様子がしのばれます。『高橋氏文』という書物にすでにカツオ漁についての記述があり、安房のカツオ釣りが擬餌針の発祥ではないかと先生はおっしゃっていました。
 大膳職という中央の役人に食べ物を出すところで安房大神が御食神(みけつかみ、食べ物の神様)として祭られていたことなどからも、特に海産物の産地として中央からお墨付きだったようです。

ポイント
 Ⅰ期のころはまだ鉄は日本で製錬する技術がなく大陸から輸入していたため、今でいうレアメタル、びっくりするほどの貴重品。S字口縁甕も畿内の土で作られていました。なぜ都会(当時の都会は畿内)から遠く離れた安房からこんなものが出土したのでしょうか?


まとめ
 他の地域の遺跡からも畿内式の祭祀遺物が出土しており、まだ電話もネットもない、じわじわと口コミ的に情報が広がっていた(そのため中央から離れるごとに違うものになっていく)時代において、タイムラグがない全く同じ形式のものが発見されるということは、誰かがそれを持ってきたということです。

 では、誰が何のために持ってきたのでしょうか?

 どうやら「大和朝廷が船旅で遠征するため、要所の住人に安全祈願の儀式をさせた」ということらしいのです。上記8箇所の神郡がその要所にあたります。
 ちょうどこのときの遠征は東国と東北への進出のためであり、ヤマトタケル伝説との関連性がうかがえます。
 この古代のまつりはどうやら楽しく騒ぐようなものではなく、形式がガッチリ決まった儀式だったようです。

 つまり、後の7世紀に神郡に指定されたのは突然ではなく、4世紀~5世紀に東北へ遠征に行くにあたり、国家的な要所と認められていたからなのです。

 そしてⅡ期、Ⅲ期で漁や農業に関するまつりが増えたことから、朝廷からやってきた儀式が、しだいに地元に馴染んだものへと変わり、自然に広まり、また違う形になって集合したということがわかります。
 こちらのまつりはちょっと楽しそうですね!

 一見するとただの土のかたまり、そんな遺跡もていねいにたどると、こんなエピソードが明らかになってくるというのはとても面白いですね。
 意外な歴史のつながりは、まだまだ土の中にあるのかもしれません。

 

 今回で今年度の安房学講座はすべての講座が終了となりました。参加していただいたみなさま、ありがとうございました。

 来年度も詳しい日程が決まり次第ブログや広報でお知らせいたしますので、興味を持たれた方はぜひ参加をお待ちしております!